| 催眠療法と思想(エッセイ:退行催眠について) |
アメリカ人にはイギリス人だと言われ、イギリス人にはアメリカ人だと言われる、(少なくとも私の友人のアメリカ人やイギリス人はそう言っていました。)そんな詩人T・S・エリオットの代表作「四つの四重奏曲」の冒頭の詩「バーント・ノートン(BURNT
NORTON)」は次のようなフレーズで書き始められます。
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現在の時と過去の時
どちらもが、おそらく未来の時の中に存在する
そして、未来の時は過去の時の中に包まれている。
Time present and time past
Are both perhaps present in time future,
And time future contained in time past.
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とても抽象的な書き出しで始まり、この詩は次のように終わる。
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過去の時と未来の時
あり得たことと、いまあることが
一つの終わりを示して、それはいつも現存する。
Time past and time future
What might have been and what has been
Point to one end, which is always present.
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過去は誰にとっても過ぎ去ったものであり、それを覆すことは誰にもできない、だからこそ、事実として残るのかも知れません。
一方、 未来は誰にとっても未知であり、未知だからこそ、誰もがそれを知りたいと思ったり、
まだ見ぬ希望をそこに重ねようとしたりするのかも知れません。
けれど、詩人エリオットは現在という時間は未来と共にあって、未来は過去へとつながっていると考えたようです。これは極めて仏教的な輪廻の時間観であり、彼が仏教科目をハーバード大学で聴講していたという事実もあるようですので、やはり仏教思想の影響によると思えます。
この考え方をキリスト教のコンテクストから無理にでも引っ張り出すとすれば、考え方が近いものが伝道の書3:15に見つかります。そこには次のように書かれています。「いま在るものは、過去からあったものである」。でも、もともと伝道の書は旧約聖書の中でもかなり東洋的な思想に立つ書物とも言えるもので、キリスト教の聖典の中では少し得意なものでもあるかと思います。
ところで、私は時間というものは、すべてが現在に集約されているというように考えています。エリオットが言うように、時間は輪廻の輪を描くように過去も未来も一つの終わりに向けられるのかも知れません。しかし、それは個人という人間の時間幅を超えたところで、もっと雄大な時間の帯域の中で時間というものを論じた場合に言える事だと思うのです。個人の意識レベルでは終わりもまた現在という時の中に集約されていると思うのです。
生身の一人の人間にとって、時間はいつも現在を軸として動いていると思います。変えることができないと思われる過去の時間の中にあったはずの事実性でさえも、実はすべて現在の中に存在すると思うのです。過去でさえ、現在という時間の中に置かれているからこそ、過去として意識されるのであり、事実という、あたかも変えようがないもののように現在という時間の中で意識されているのです。それゆえ、過去でさえも現在の中に置かれることによって意味を成していると思うのです。
たとえば、新聞の朝刊を読めば、既に過去という時間の中で生起した事柄がレポートされています。でも、もし他の新聞も読み比べてみると、同じ事実が時には異なる観点で述べられていたりします。同じ事実、同じ過去という動かしがたいはずの事柄でさえも、実は現在という時間帯域の中から見られた場合には、時にはその意味に揺れやズレが生じていることもあります。なぜそうなるのかと言えば、それは過去でさえも現在という時間の中で再解釈すなわち再構築しているからそのように過去の事実の意味に変化が生じるのです。過去は動かしがたいものではなく、人間の現在の視点を通じて再解釈されるものでしかないと思います。
どれほど過去が決定的な覆しようがない事実であると考えてみても、それもまた、一つの思考のパターンでしかないと言えます。人はどんな過去であろうと、現在という時間からそれを眺めているのです。逆に言えば、過去は宿命のように、どんなに動かしがたい事実として見えていたとしても、現在という時の帯域から見られるものでしかなく、どんな過去でさえも、現在からコントロールが可能なのだという気がするのです。それを可能とする一つの方法が催眠療法、とりわけ、この場合は退行催眠だと私は思います。
退行催眠では、通常はただの回顧や回想を行うというよりは、取り返しのつかないトラウマを抱え込んだ過去へと催眠の中で退行します。そして、過去の事実を再体験しながら、そこにあった誤解を紐解いたり、あるいは、どうしてもこだわりの消えない出来事をもう一度催眠の中で再体験しながら、たとえば、どうしても赦せなかった出来事について、時には赦し得る自分を発見したります。あるいは、赦すということを通じて、赦せなかった自分という枠から解放される体験をしたりもします。自分で自分を縛っていた場合もあります。そのような場合には、自分で自分を解放する体験をすることもあります。
退行催眠は、その意味で、過去という本来書き換えようがないと信じられているはずのものを、書き換える作業ともなるのです。そして、過去を再構築あるいは脱構築するのです。それは現在という時間の方から過去を癒し、同時に、現在をも癒す作業と言ってよいでしょう。言い換えれば、過去が現在の方位へと転位されると言ってもよいでしょう。その意味で、過去も現在の中に集約されていると思うのです。
では、未来はどうなのか。これについても同じ事が言えます。未来は人がどのようにでもイメージできるものです。でも、人が近未来の自己イメージを描いているとき、やはり現在の中でそれを描いていると言えるでしょう。例えば、占いを信じるかどうかには個人差があるにせよ、占いは現在からみた未来を語ることでしかありません。未来は現在というフィルタを通過したものでしかないのです。仮に占いの結果を信じるとすれば、人はその占い結果如何によって、現在を修正するかも知れません。あるいは現在を修正する必要など、まったく認めなかったとしても、いずれにせよ、人は未来というイメージの世界を、現在という時間帯域の中から見ていると言わねばなりません。
すべての時は現在につながっている。過去も未来も。すべてはいま生きているということにつながっている。それがエリオットの立場ではあったでしょう。但し、彼の時間についての考え方は、一人の人間の存在を巡る時間というよりは、もっとトランス・パーソナルな時間であるというふうに私は思うのです。一人の人間実存にとっての時間、それは過去も未来も、ともに現在に集約されているとは言えないでしょうか。
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催眠療法・前世療法 Hypno Work Shikoku
   
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